「今求められる牧師と信徒のあり方」ジョンストット

「今求められる牧師と信徒のあり方」ジョンストット


↑日本語訳のタイトルでは、「今求められる牧師と信徒のあり方」となっていますが、英語のタイトルは、「ONE PEOPLE」です。つまり、「今求められ」ているのは「牧師と信徒」が「ONE PEOPLE」(一つの民)であるという聖書の原則です。本書が書かれたのは1991年(私がマイナス1歳の頃)ですが、「今」もかわらず求められている原則です。教会の動きの中で、信徒が受け身でいるのではなく、主に召された民として積極的に仕えるようになること。そのために信徒が整えられる必要があること。ジョンストットは、それを「集まり」「奉仕」「証し」「交わり」という四つの視点から、わかりやすく論じています。

 

この本を通して、これから自分が大切にすべき聖書の原則を教えられました。各章の超絶要点部分だけを文章化したのでシェアします。

 

第1章

第1章「クリスチャンの集まり(エクレーシア)」では、聖書が意図した教会とは何かについて、特に牧師と信徒の関わりの中で書かれています。

教会とは、一つの民、一つの共同体です。教会はこの世から神のものとして召し出された神の民、エクレーシアであり、ただ神の召しのゆえに他とは区別される独特な一群を形作っています。この教会の召しは、教会全体の召しで、教会のメンバー全てに関わるもので、そこには差別や偏りがありません。そして教会全体は神を礼拝し証しする集団となるように意図されています。牧師はそれを占有できないし、信徒もそれから逃れることはできません。牧師偏重主義は、教会の間違ったイメージから出ています。神が牧師を大切な働きのために召されたのは事実ですが、その立場は贖われた群れである教会全体の存在意義に調和するものでなければなりません。牧師は教会に仕えるためにいるのであって、その逆ではないのであって、特に立場とか特権において、教会は神の召しによって一つであり違いがないことを正しく認識しなければなりません。

 

第2章

第2章「クリスチャンの奉仕(ディアコニア)」では、牧師は奉仕(ディアコニア)に召されており、従って牧師と信徒の正しく適切な関係は「奉仕する」関係で、教会全体が「奉仕に召されている」ことが強調されています。

牧師は信徒の上に権力を振り回したり(牧師偏重主義)、自己を卑下し、自分たちが不器用であるかのように振舞ったり(牧師無用主義)、あるいは他の領分を一般信徒に割り当てる一方で、自分の領分を踏み越えさせないように過度に身構える(二元論)ことは正しくありません。そうではなく、信者の群れこそ教会であり、牧師は信徒に奉仕し、信徒が神のみこころに添うものとなるように助力するために任んじられています。信徒の召しは、「奉仕の働き」に携わり、キリストのために世界の人々に仕えることです。そして牧師の召しは聖徒がそれを果たせるように「整える」ことです。(エペソ4:11~)信徒は、キリストの尊い血によって贖われた神の民全体であり、その中のある人はキリストのために信徒を見守り、牧し、仕える特権を与えられています。牧師は、その存在そのものが個別の階級であるかのように信徒と対比されるのではありません。牧師は「その群『の』奉仕者です」。なぜなら、牧師自身が、仕えるように召された教会の一員だからです。

 

第3章

第3章「クリスチャンの証し(マルチュリア)」では、牧師と信徒の関係を、具体的に適用した筆者の経験が書かれています。牧師が信徒に仕えるのは主に、信徒を世における生活、働き、特に証し(マルチュリア)のために教え、訓練するためです。つまり、牧師の奉仕(ディアコニア)は信徒の証し(マルチュリア)に役立ちます。

イエスはその時間を、民衆への説教、個人へのカウンセリング、12弟子の訓練に区分されました。ほとんどの牧師は、最初の2つ、つまり会衆への説教と、個々の人との面談には熱心ですが、3つ目を軽視する傾向にあります。使徒の訓練が特別な働きであったことは当然ですが、選ばれた能力のある指導者たちを、より集中して指導するという原則は、今日でも通用するように思われます。グループ訓練を欠いた、説教とカウンセリングによる宣教活動はバランスの欠いた奉仕であるといえます。なぜなら、それはキリストの模範にそぐわないからです。牧師は信徒が効果的に証しできるよう訓練する必要があります。

 

第4章

第4章「クリスチャンの交わり(コイノーニア)」では、牧師と信徒の関係からさらに進んで、より広く、教会の交わりの中における教会員相互の関係について書かれています。聖書が交わり(コイノーニア)と呼んでいる内容について、また、それを個々の教会でどう実践するのかについて解説されています。

新約聖書を研究すると、クリスチャンのコイノーニア(共有性)は、3つの含蓄を持つことがわかります。一つ目は、私たちがともに受け継ぐもの(互いにあずかるもの)であるということです。私たちは「同じ信仰」を与えられ、従って、「同じ救い」を受け、「ともに恵みにあずかった人々」です。信仰、救い、恵み、はクリスチャンの間に共通の特徴です。2つ目は、共同の奉仕(互いに努める事柄)があるということです。それは、私たちが福音を広める「同労者」(2コリント8:23)、パートナーであるということです。3つ目は、相互に責任(互いに分け合うもの)があるということです。これは、私たち全員が受取人であったり、全員が提供者であるような交わりではありません。ルカが「一切のものを共有していた」と書いたように、私たちが互いに、与え、受ける交わりです。金銭に限らず、仕えあい、愛し合うことを含みます。

 

第5章

 第5章は、アメリカニュージャージー州のロング・ヒル教会の主任牧師パウル氏から寄稿されたものです。パウル氏が自身の経験から学んだ牧師と信徒のあり方について書いています。

教会員は自分たちを一つの教会として、イエスキリストに有機的に結び付けられた「一つの民」と見なければなりません。そのためには先ず、牧師の心にその考えが浸透する必要があります。牧師はみことばの講解者であり権威を持ってそれを宣言する使命を持っています。しかし、牧師は遠くから物事を指図するだけではなく、人の傍にあって生き、手助けし、整えるものとして人々に仕えるものでなければなりません。そこには人間関係が含まれます。教会が心を開き、配慮し合う信徒の交わりになるべきだとすると、その概念は、主任牧師が他の牧会スタッフに対して実際に身をもって示さなければなりません。委員会や役員会も単に決議する機関としてあるのではありません。それは祈り会として、教会のメンバーが愛と良きわざのために励まし合い、確認しあい、動機づけしあう機会と見る必要があります。概念は、人間関係の中で生かされる時、私たちの生活にインパクトを与え始めます。伝道は、キリストのからだとして世にある教会の活動の中心にあります。しかし奉仕する群としての教会は、証しを整えるための場だけではありません。愛の奉仕という生活のあり方を通して、その証しを世の人々の前で価値あるものとできるのです。(1ヨハネ13:35)

 

感 & 想

第3章には、「牧師はコーチ」とも呼べることが書いてありました。優秀なコーチが選手一人一人の持ち味を生かして輝かせるように、信徒一人一人を生き生きとした神の国のアスリートへと「整える」牧師になりたいなと思いました。今、私は訓練を受けている立場ですが、やがて私も訓練をさせる立場になります。その時は、聖書の原則から外れないようによく注意して、信徒に対する訓練を適切にできるようベストを尽くします。最近、子供達にボクシングのコーチをしていて気づいたことは、遊んでから訓練すると彼らの訓練に対する姿勢が良くなるということです。第5章に書いてあった、「概念は、人間関係の中で生かされる時、私たちの生活にインパクトを与え始め」るということだと思います。聖書が意図した教会を建て上げるために、人間関係を大切にして信徒たちを整える牧師を目指します。

 


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伊藤 走

伊藤走(イトウソウ) 好きな場所は教会とスターバックス。