わたしは渇く。イエスキリスト

「わたしは渇く」イエスキリスト @世界水の日


1993年。

国際連合総会で3月22日を「世界水の日」とすることが決まった。

そう。

今日は「水の日」なのだ。

「水の日」にふさわしく宮城県富谷市では水(雨)が降っている。

水が降っている「水の日」に水について思わずにはいられない。

水は人類に必要不可欠だ。人間のからだの半分以上は水らしい。

こまめに水を飲んでいれば、風邪を引かないという話も聞いたことがある。

それが本当かどうかは分からないが、レッドブルよりも水の方が健康に良いことは間違いないだろう。

前回、「もしも地球からミツバチがいなくなったら」という記事を書いた。

富谷市の「はちみつプロジェクト」が熱い。ミツバチがいなくなったら、スターバックスでコーヒーが飲めなくなる。

だが、もしも水がなくなったらどうだろうか。

水が地球から消えることは、ミツバチがいなくなるよりも、はるかに大変なことだ。

想像しただけで喉が乾く。

だけど、大丈夫だ。

この地球では、一定の量の水がずっと昔から循環し続けている。

(「水の循環」のことは考えれば考えるほど驚嘆せざるを得ない)

しかし、スポーツの世界でイメージトレーニングがなされるように、学校で避難訓練が行われるように、何事もイメージすることは大切なことではないだろうか。

「備えあれば憂いなし」ということわざもある。

私は今日という「水の日」に、人生で初めて「地球から水がなくなった状況」を想像した。

水がない世界を考えていると、私の心に詩が浮かんだ。

せっかくなので、シェアしようと思う。

タイトルは、「水がなくなったら」。

 


「水がなくなったら」

もしも水がなくなったら、寝癖は直せなくなる。歯も磨けない。NO WAY.

もしも水がなくなったら、バナナの木は生命力を失う。バナナシェイクが飲めないなんて。NO WAY.

もしも水がなくなったら、流れるプールも流れない。もう一度流れたい。NO WAY!

もしも水がなかったら、私は渇く。水!


 

 

(※真剣にふざけることが惣菜丸走のサブコンセプトです)

 

水を飲めなければ飲めないほど、私たちは渇く。

私は学生時代、ボクシングの試合に出る度に「減量」に苦しんだ。

試合が近くなると、体から水分を抜く。

喉はカラカラ。手はカサカサ。

頭の中は「ジュース」や「水」のことでいっぱいになる。

以前、WBC世界ライトフライ級チャンピオン木村悠選手(@kim1123y)とスパーリングをさせていただいたことがある。

木村悠選手がボクサーの減量(水抜き)について的確なツイートをしていたので紹介しよう。

このツイートに共感しないボクサーはいないと思う。

その通りである。

私も減量中は狂ったように、Googleで「飲み物」を眺めていた。

そう。

人は渇く。

コルカタのマザー・テレサは働きを始めた頃、十字架上でイエスキリストの発した言葉に心打たれた。

「わたしは渇く」(聖書−ヨハネの福音書19章28節)

マザー・テレサにとってその言葉は肉体の渇きばかりでなく、人間をそばに引き寄せたいと願う神ご自身の渇きを象徴するものとなった。

そして、「わたしは渇く」を神の愛の宣教者会のモットーとし、各チャペルに掲示するよう命じた。

マザー・テレサはあるシスターに宛ててこう書いた。

「神の限りない渇きという愛を、私たちはこの体にも魂にも携えています。神は渇いておられます。神は私たちを求めて渇いておられ、人間は神を求めて渇いているのです。」

神は必要に迫られてではなく、欲しいという思いから渇いておられる。神の本質とは愛なのだから。

私たち人間の心には、「健全な人間関係」でしか満たすことのできない空洞(渇き)がある。

だが、かつて数学者のパスカルが言った言葉を忘れてはならない。

「人間の心には神のかたちをした空洞がある。」

マザー・テレサが多くの人の渇きを満たすことができたのは、渇く必要がないのに渇きを覚えてくださったお方の言葉がきっかけだったのだ…

「わたしは渇く」


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伊藤 走

伊藤走(イトウソウ) 好きな場所は教会とスターバックス。