私は命のバナナパンです。わたしは命のパンです。

わたしは命のバナナパンです。


誤解を招くのを防ぐため、まず最初に宣言しなければならない。

 

私(惣菜丸走CEO)は決して、「命のバナナパン」ではない。

 

パンは大好きだ。

 

フランスパンにハチミツを塗って食べるのが朝のルーティンだ。

 

バナナも好きだ。

 

スターバックスのバナナフラペチーノを期間限定ではなくて、常時販売するようにスターバックスのボスに提案したいくらいだ。

 

だが、私は決してパンではないし、バナナでもない。

 

まして、「命のバナナパン」であるわけがない。

 

そう、私は人間だ。

ユニクロのバナナティシャツ
私はバナナではない。

 

では、なぜ「わたしは命のバナナパンです。」というタイトルの記事を書くに至ったのか。

 

理由はシンプル。

 

当SISOMAKIブログを読んでもらうためだ。

 

世界的なベストセラーを数多く著したセス・ゴーディン氏はTEDトーク「スライスしたパン」のなかで次のように述べている。

 

「あなたは車を運転しているとします。そして牛を見つける、でも運転し続ける。だって牛なんか何度も見たことがあるから。牛は目に入らない、牛はつまらない。 誰が、車をとめて「あ!見て!牛だ」なんて言いますか? そんな人いません。でももし牛が紫色だったら …  もし牛が紫色だったら、あなたは気づくはずです。 … 何が口コミで広まっていくのか、 何がなされ、何が変わるのか、 何が買われ、何が建設されるか を決める要素は、 それが注目に値する(remarkable)どうかです。 」

 

 

セス・ゴーディン氏は、「選択肢に溢れているけれど、選ぶ時間が少ないこの世の中で、私たちは普通のものに見向きもしなくなっている」と言う。

 

退屈なアイディアよりも、ひどく奇想天外なアイディアの方が私たちの注目を集めるということだ。

 

イエスキリストの「わたしは命のパンです。」という言葉は有名だ。

 

わたしは命のパンです。 とGoogle検索すると、約 10,700,000 件ヒットする。

 

対して、私は命のバナナパンです。 とGoogle検索しても、8件しかヒットしない。(2018年現在)

 

狙いはここにある。

 

「わたしは命のバナナパンです。」というブログタイトルは、セス・ゴーディンの言う「紫の牛」に違いない。

 

きっと、この世の人々の目を引くはずだ。

 

SISOMAKIブログのターゲットは、地球在住で日本語を読むことのできる人間だ。

 

その中から可能な限り多くの人に読んでもらうために、イエスキリストの言葉を耳にしてもらうために、「わたしは命のバナナパンです。」というタイトルにした。

 

バナナという言葉が入った記事は注目に値するに違いない。
注目に値する(remarkable)なブログを目指して

さて、ここまで読み進めてくれたグレートな人間の一人であるあなたはイエスキリストが「わたしは命のパンです。」と自己紹介していたことを知っていただろうか。

 

もしかすると、神に愛されたグレートな人間の一人であるあなたは、世界で1番売れている本、「聖書」を持っているかもしれない。

 

持っている方は、聖書の中のヨハネの福音書6章を開いてみてほしい。

 

持っていない方はアマゾンへ全力ダッシュだ。

 

ヨハネの福音書6章を読むと、確かにイエスキリストは言っている。

 

わたしは命のパンです。

 

わたしが命のパンです。

 

わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。

 

ヨハネの福音書6章の中で、イエスキリストは何度か「わたしは命のパンです。」ということを宣言している。

 

どういう事なのか。

 

イエスキリストは食べられるのか。

 

そうではない。

 

イエスキリストはアンパンマンとは違う。

 

聖書が言う「いのちのパン」は、”人に霊的ないのちを与える食べ物”という意味だ。

 

聖書によれば、人間の魂の飢え乾きを満たすのは、「いのちのパン」によって可能だ。

 

アンパンマンはジャムおじさんが作ったパンの種に、空から降ってきたいのちの星が落ち、誕生した(第一話「誕生編」参照)。それで心を持ったパンとなった。(架空)

 

イエスキリストは神が人となられたお方だ。

 

(「そんなバナナ!?」と言わずに…もう少し読んでみてください🍌)

 

ヨハネの福音書6章では、「天から下って来た」(38節、41節、50節、58節)ことが強調されているが、イエスキリストは、神のみこころ(計画)を行うために、人間の姿をとってこの世に下って来てくださったお方なのだ。(リアル)

 

神のみこころ(計画)は、

 

「子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つこと」(6章40節)

(子→イエスキリスト)

 

と書いてある。

 

バナナ!ハレルヤ(主をほめたたえよ)
ハレルヤ

 

アンパンマンは文字通り、空腹で困っている者に、自分の顔の一部を与えることで、仲間を助けた。彼はどんなに大きな犠牲を払ってでも、目の前にいる仲間を決して見捨てない存在だ。(架空)

 

イエスキリストは、ご自分の体を十字架の上でささげられた。

 

それは、人間である私の罪の身代わりとなるためであり、イエスキリストを信じる者すべてに「永遠のいのち」を与えるためだった(ヨハネ20章31節)。

 

イエスキリストは、自分から十字架に向かい、その上で私の罪に対する神の怒りをすべて受けてくださった。そして、死んでよみがえったのだ。(リアル)

 

ある人は言うかもしれない。

 

「小さな点では相違があると思うが、核心部分では私たちは同じものを信じているのだ。」

 

「神(あるいは神と呼ぶもの)が山の頂上にいて、全ての宗教はその山のふもとにいる。ある人は1つの道を上り、ある人は別の道を上る。最後には同じ場所に到着する。宗教はそのようなものではないのか?」

 

私は言うだろう。

 

「山の上におられる神が私たちのいるふもとまで下りて来られたとしたら、どうでしょう。神は私たちが神に到達する道を見つけるのを待たずに、神の側から私たちに近づいて来られたらどうでしょう?」

 

それが、聖書が宣言している神だ。

 

人間のために自ら来てくだる神。それがイエスキリストだ。

 

わたしは命のパンです。 よりも有名な聖書のヨハネの福音書3章16節をシェアする。

 

このヨハネ3章16節は、ロサンゼルス発祥のファッションブランド「FOREVER21」の紙袋の底にも記されている。(社長がクリスチャンなのだろう)

 

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。ヨハネ3章16節

(ひとり子→イエスキリスト 御子→イエスキリスト 世→私 )

 

神は、そのひとり子であるイエスキリストをお与えになるほどに、私たちを愛しておられる。

 

私(惣菜丸走CEO)は、なぜ神の目に愛すべき存在なのか?

 

3年前、インドの貧困街へ生活用品やお菓子を持って出かけた。そこで、聖書の話をシェアしてきた。

 

今でも、インドのために祈る。

 

だから神は私を愛しておられるのか?

 

毎週日曜日に教会に行く。聖書を研究する。友達に「神の驚くべき愛」を伝える。

 

だから神は私を愛しておられるのか?

 

熱心に祈る。献金する。

 

だから神は私を愛しておられるのか?

 

そんなふうに思っているなら、私はパリサイ人(神の命令を守り行うことで、神に受け入れられると信じる人)だ。

 

そうではない。

 

私が愛されている理由はただ一つ。

 

神が私を愛しているからだ。

 

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。ヨハネの手紙第一4章10節−11節

 

私は時に心の中で、人を憎み、妬む。

 

聖書に書いてある、神の命令を守れていないことは多々ある。

 

だが、神は、私が何をしようと、どんな間違いをしても、私を愛しているのだ。

 

「わたしは命のパンです。」なんて狂った人の言うことだ。

 

ある人は言うかもしれない。

 

確かにそうだ。

 

神は本気で狂ったほどに、私たちを愛しておられる。

 


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伊藤 走

伊藤走(イトウソウ) 好きな場所は教会とスターバックス。