地獄は存在する


罪とは何なのか。

聖書によれば、罪とは神の命令に逆らうこと。(1ヨハネ3;4)

 

聖書によれば、神がこの世界を創造し、人類最初の人間、アダムとイブをつくられた時には、罪はなく、地上には何の苦痛も悲惨もなかった。(創世記)

 

アダムとイブは「エデンの園」という最高すぎる環境で幸せに生きていけたはずだった。

 

ところが、この2人は「エデンの園」を追放されてしまう。

 

なぜ、最高の環境から追い出されてしまったのか。

 

それは、神の命令に逆らったから

 

神は、「エデンの園」にいろんな美味しそうな、最高の果物をたくさん生えさせてくださった。

 

そして、「エデンの園」の中央には、「いのちの木」、「善悪の知識の木」の2本を生えさせた。

 

神は人に命じた。1つの禁止事項を示された。

 

「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べて良い。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2;16)

 

ちょっと脱線するけど、「禁」という漢字に注目。

 

禁を分解すると、、  禁=木+木+示

 

“2本の木を示す” ってなる。

 

神は2本の木を示し、そこで禁止事項を語られた。

 

何でかわかんないけど、漢字に聖書の真理が示されてる。

 

1つの禁止事項を与えられた人は、この後、悪魔に誘惑されて「善悪の知識の木」から実を取って食べてしまう。

 

この時に全人類に罪が入った。

 

この罪の結果、人間に苦痛が伴うに至った。

 

人類は死んだ

 

なぜ、食べてはならない木を、神はそこにつくったのか。

 

見るからに美味しそうな実のなる木を、園の真ん中に植えておいて、それだけを食べるなというのは、ちょっとひどくないか…

 

100%神に従順な心を与えてくだされば、アダムもイブも禁断の実を食べずに済んだのではないか…

 

しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか」と言えるでしょうか。陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。(ローマ人への手紙9章20節)

 

それから、神は自由意志を持つ者として、人間をつくられた。

 

人間が型にはめられたような、何の自由もない、本能だけで存在するようなものにつくられていたのであれば、確かに問題はなかったかもしれない。

 

しかし自由のない方が良かったと本当に思う人はいないと思う。

 

万引きした人が、「仕方ないでしょう。食べたいものや飲みたいものがこんなにもずらりと並んでいるのだから。」というような話を聞いたことがある。多かれ少なかれ、私たち人間はこんな屁理屈を言いたがってしまうのかもしれない。

 

このような比喩も聞いた。

 

ある有力者が、ある女を力ずくで引きとどめ、「お前を愛しているのだ。私の元にいたら、なんでも好きなようにさせる。だから離れることを決して許さない。」

 

こう言ったらどうどろう。これは、自分の力に頼み、身勝手な自己愛を貫く態度に過ぎない。真の愛は相手の自由と自発性を尊重した人格的な交わりだ。

 

私たちが何を信じるか、どう生きるか、何を選択するかは、常に自由。

 

それは、神様の恵み。

 

神様の恵みは尽きない。

 

 

でも、私たち人間はいつも神の命令に逆らってしまう。

 

聖書には神の命令がたくさん書かれてる。

 

例えば、殺してはならない。(出エジプト20;13)

 

日本でも、殺人犯は逮捕され処罰される。

 

聖書によれば、人を憎んだら、それは人殺しと同じ。(いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠の命がとどまっていることはないのです。1ヨハネ3;15)

 

アダムが神の命令に逆らった瞬間から私たち人間は全員罪人。

 

聖なる聖なる聖なる神は、人を裁かなければならない。

 

スターバックスに必ずコーヒー豆があるように、私たち人間には必ず罪がある。

 

スターバックスにコーヒー豆があるのは、スターバックスがコーヒーショップだから。

 

人間が罪を犯すのは、人間が罪人だから。

 

聖書によれば、神は罪を憎まれる。

 

神の前に人間は全員罪人。

 

聖書によれば、罪人は地獄。

 

いのちの書に名の記されていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。(黙示録20;14ー15)

 

聖書は地獄を(イエスキリストは『燃えるゲヘナ』と呼んでいる)永遠に過ごす場所として描いてる。(マタイ25;41ー46 黙示録20;11−15)

 

地獄は火と暗闇の場所。

 

泣いて、歯ぎしりする場所。

 

滅びの場所。

 

苦しみの場所。

 

言い換えれば、全面的な苦痛と悲惨な場所。

 

これらの言い回しが象徴的なものであるとすれば、(火と暗闇は文字通りに考えると相いれない)現実は私たちの想像を超える。

 

新約聖書の地獄に関する教えは私たちにひどいショックを与え、恐ろしさのあまり私たちは言葉を失う。

 

天国が私たちの想像よりもさらに素晴らしいところであるように、地獄も私たちの想像よりもさらに悪いところであることを確信させる。

 

このことは、永遠に関わることで、今、現実的に直視する必要がある。

 

聖書は地獄を永遠に続く場所とみなしてる。死後に『第2のチャンス』がある、あるいは、ある段階で不敬虔なものは無になるという憶測は、何も聖書的根拠を持たない。

 

聖書は地獄を自ら選ぶものとしてみている。

 

自分たちを造られた方を主としないことを選ぶことによって、自己否定の義よりも好き放題に罪を好むことによって、イエスのもとに来るよりも、むしろイエスを拒絶することによって、自分自身を地獄に定めていると聖書はいう。(ヨハネ3;18−21、ローマ1;18、24、26、28、32、2;8、2テサロニケ2;9ー11)

 

でも、神様のあわれみは尽きない。

 

聖書が地獄について教える目的は、私たちを地獄から救うキリストの恵みを私たちによく理解させ、感謝してそれを受け入れ、理性的にそれを選ばせるため(マタイ5;29−30、13;48ー50)

 

聖書の中で神が地獄についてこれほどはっきりと語っていることは、本当に人類に対するあわれみ。

 

私たちはもはや、地獄について警告されてないなんていうことはできない。

 

私たちは聖書を知れば知るほど、考えれば考えれほど、家族に、友達に、イエス様を紹介せずにはいられない。

 

約2017年前。神であるイエス様が私たち人間のためにこの地上に来てくださった。

 

私たちを罪から救うために。

 

私たちを死ぬほど愛してるから、神の罪に対する怒りの身代わりとなるために、罪の怒りを十字架の上で全て受け死んで、復活した。(ヨハネ3;16)

 

私たちは自分の罪を悔い改めて、イエス様の恵みを信じるだけで、罪が赦される。

 

しかも、天国に行く特権までも与えられる。

 

聖書はリアル。地獄はリアル。

イエス様のあわれみはリアル。

祈り続ける。

 

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聖書教理がわかる94章~キリスト教神学入門 J・I・パッカー (著) THE BOOK 

旧約聖書入門―光と愛を求めて (光文社文庫) 文庫 – 1984/12


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伊藤 走

伊藤走(イトウソウ) 好きな場所は教会とスターバックス。

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